悩み相談:年末の忘年会が億劫です、どうにかならないでしょうか
投稿日: 2021.12.21
霜を被った雲樹寺の植木くん、寒そう
そういうわけで突然ですがこちらのお悩みについてお話していきましょう
匿名の投稿者による「年末の忘年会が億劫です、どうにかならないでしょうか」というもの
はい、雲樹寺の副住職、醍醐です
あまりに唐突で驚かれた方もあるかもしれませんが、こういう方向も模索していきます
何事もチャレンジありきですからね、では参りましょう
どうでもいいですけど年末の忘年会なんて当たり前ですよね
これ忘年会だけでいいですね、大概年末ですからね
そのくらいに悩まれてる方は必死なのでしょうね、分かります
〇
そう…気持ち、超分かります
少しだけ私にとってはの話になりますが
昔はそんなことなかったんですけれども
年を取って、負うべき責任や実行するべき仕事などが増えて
要はやるべきことが多くなればなるほど、分るようになってきました
年末ね…忙しいんですよ
お寺とかは特に年末で締める会計がどうとが多いわけでは無いんです
それでも忙しくなってしまう
結局のところお寺がどうとかは関係ないんですよね
お寺がそうでなくても、お寺を支えて下さる人々がそうなんですから
だったらお寺が忙しくなってしまう、これは道理なんです
これが分からない頃、何の責任も無い頃をもはや思い出せません
忘年会にも全く苦は無く、むしろ嬉しいとしか思っていなかった
知らぬが仏というやつなのでしょう…今思えばぞっとするほど、何も考えていなかった
そんな私ですが、今は忙しい、成長したからなのでしょうか
そして相談された悩みの方に目を向けると…
私の思っていることに同調していただけそうな感じがあります
「年末の」「忘年会」って言ってるのはそういう理由なのかなって
「年末」だから忙しいんだよ!っていう感じなのかなって
邪推ですけども
〇
まあ無理矢理に私の感覚に近づけずともいいのです、完全に余談
「忘年会」が億劫なのがどうにかならんのかについて考えましょうか
私なりに
となるとやはり、共同体における上下と、無礼講の席の話でしょう
これら、水と油のように相当準備をせねば混ざりませんからね
水と油の話をするといつからか誰もが「いや混ざりますけど」みたいに言います
悪い風潮ですよ…分かってるんだよ混ざるのは!マヨネーズかけるぞ
重要なのは「非常に混ざりにくいAとB」の性質を指した比喩表現である事!
揚げ足を取りに来るのは
……いや止めましょうそんな話、熱くなり過ぎた
むしろその、混ざるけど混ざりにくい事を利用して話していきましょうとも
人間の作る共同体において上下関係は必定!
そして、忘年会を始めとした腹を割ってのコミュニケーションの場も必須!
この二つは、ただ同じ器に入れても混ざりません
実際の水と油で言えば、めっちゃシャカシャカ混ぜる必要があります
現実で言えば…めっちゃ激しい忘年会を行う?上下関係をメチャクチャにする?
どちらもいい考えとは思えません
そもそも、忘年会しても皆が楽しみやすい空気が普段からあるべきなんですよね
これが、水と油が混ざりやすくなる秘訣です、つまり事前準備
準備をしていないのに混ぜようだなんて考えがおかしいのです
普段から感情に任せて行動するとか、誰のいう事も聞かないとか
こんなこと共同体の中でしてたら忘年会でも何でも楽しいわけないですよね
上司であっても部下であってもです
要は普段からの共同体の有様が忘年会への姿勢に出ている、と
〇
そう…何の解決にもなってませんね
まあ今は忘年会が億劫な理由をさがしてるところですので!
理由と言えば、考えられるもう一つは「飲みニュケーション」離れでしょうか
でもこれも、単に嫌だから以上の要素がありますよね
そもそもお金が無いですからね…
私だってそうですが、そんな沢山の余裕はないです
あと上記の通り、年末は時間的余裕も少なくなりがちな事
もう一つが共同体の空気感
このくらいでしょうか、億劫な理由
…強いて言えば「面倒くさいから」でしょうか
でもこれって行動を起こさない理由としてはかなり粗雑ですからね、除外しましょう
行動を起こす理由になるなら悪くないと思うんですけれどもねぇ
だいたい、最初のお題に既に「億劫」というのが書いてあります
これ、仏教用語なんですね
意味としては、要はすさまじく長い時間を指します
そも「一劫」というのが
「百年に一度降りてくる天女が」「バカでかい大岩を一回羽衣でなでて」
「その大岩が消えるまでの時間」を現すんです
これを一億回で「億劫」になります
何言ってんのっていう規模ですよね、さすがインド的な概念(誉め言葉)
つまりそのくらい長い月日を感じるほどの間隔を得られる、ってわけです
だから嫌だと
ははぁなるほど、そりゃ嫌だ
それで「手間がかかる」という意味の面倒くさいとは別なのも分かります
忘年会などの諸々を単純に時間的拘束とそれに伴う苦痛でとらえてるんですねぇ
〇
しかし仏教用語には「把手共行(はしゅきょうこう)」という言葉もあります
読んで字のまま、手を取り合い共に向かうという意味です
手を取り合うというのは、ただそれだけの事にはとどまりません
手というのは、かつての前足
今となってはあらゆる作業の起点である人類の重要パーツ
これを取り合う、握手し合うというのはつまり
事業や作業その他全て全部を共に行っていこう、という意味になります
そして、この手は一組ずつのものではありません
人の数だけ様々な一組ずつが合わさっていく
要は共同体の理想的在り方を現す言葉が「把手共行」なんです
さらに言えば、共行するのは仕事や作業ばかりが当てはまるものではありません
辛い事や苦しい事、嫌な事、そして…内心誰もがやりたいわけでは無い忘年会も…
清濁併せ飲み合う間柄こそが、真の「把手共行」
億劫、だからこそ
面倒、だからこそ
あえてより良く取り組む生命の在り方にこそ!
本当に誰もが笑いあえる「把手共行」が得られるのではないでしょうか
〇
個人の自由、個人の時間
個人の時代であると叫ばれる昨今
だからこそ、個人とは何かを問いたい!
お寺が忙しい理由は前述の通り
忙しいのも、自分以外の誰かの忙しさ、必死さのお陰様!
このあわただしさもまた有難いのだと
部屋の中で一人きりになる時間も、それを作る多くの人々ありきです
「自分だけ」じゃない
何をしていても自分が真に一人であることはあり得ない!
だから億劫でも、死んだような目のままひとまず忘年会に出たらいいんじゃないですかね?
その中で「無くしてしまえばいい」でなく「こうすればよくなる」を見つけられれば
忘年会だけでない、全部が良くなる大きな一歩になるかもしれません
そういうわけで、私も忘年会に行ってきます(今週の忘年会6つのうち2つ目)