blog拝啓、雲樹立つ寺より

ナイル君の五七日

投稿日: 2022.01.17


ナイル君の絵葉書、ほんの一部
残りも気になる方は雲樹寺に見に来てね

 

雲樹寺の副住職、醍醐です

写真はナイルくんの手書きオリジナル絵葉書ちゃんです
かわいい

ナイルくんがこの世を去って5週間、35日が経ちました
5七日というやつです

巷では喪中の仏様が地蔵菩薩様にお会いになる日なんだとか
そして地蔵菩薩様は日本において閻魔大王と混同視されております
つまり今日はナイルくんが閻魔裁判に出廷する日なんですね

よく創作で閻魔大王様のいるところに行列できてますけど
アレはじゃあ大概35日経った故人たちの列なんですかね、どうなんですかね

とにかく裁判があるとなれば有罪無罪が決まるというもの
あの世においては天国行き地獄行きが決まるのでしょう
噂によると、生前の行いが作用する裁判なんだとか

ちなみに、雲樹寺では五七日がこういう位置づけなのもあって
この日を境に四十九日を前倒ししても良いという事になって居ます
裁判終わったからええやろ、というわけばかりではありませんが…

 

 

しかし、生前の行いとは、一体なんでしょうか

嘘をつく、悪事を行う、何かを傷つける
…例えばこれらをした者は地獄行きなのだとすれば、逃れられるものは一人とていないでしょう
おお天国への門とはなんと遠きものか
っていうか誰も行けないんじゃねぇかな…
行けるって思ってる奴ほど絶対行けないやつじゃん!
全員地獄に向かわせる気かな?

こう考えれば、じゃあ多分天国は無いですねぇ!
⁡合理的に考えれば、行けないなら必要ない、必要ないなら作りませんよね、天の国は公共事業じゃねぇんだ!

であれば、無茶なことしやがって…無いものをあるなどと
甘い言葉で釣っておいて大仰な門の向こうはハリボテかよ!
神様の正体見たりって感じだな!
こんなことしちゃって各宗教方面に失礼だよね、シャレになってないよ

そんな訳ないだろ!まんじりともせず考え直せ…!

というわけで少しだけ落ち着いてみたりして⁡
でもホント、上記の例に挙げた行いをした者が地獄に行けないってのはおかしな話です
嘘をついたとして、その嘘を信じた人がいたとして、その人が嘘に基づいた行動を取ると…
どうなるんでしょう
もしかして嘘扱い…?信じただけの人が?

仏教の世界、こと禅宗においては「教外別伝不立文字」とあります
教えは文字にするべきでないという意味です
文字は単なる文字、意味も感情も単なる文字に押し込められる
それから感じられるものは…心の数だけ、いくらでもあります
つまり、文字に遺した人と、文字を見た人との間には感じ方の齟齬がある!
これを繰り返していくと、文字に込められた意味は容易にねじ曲がります
即ち…言葉はそのまま嘘になりうるんですね

では言葉を発するということがそもそも…?

例えば嘘を引き合いに出しましたが、それだけでこの通り
これを全て悪事にしましょうか、どうでしょうか
また天国の門が遠ざかりましたねぇ!!

ならば、言葉を嫌って行いだけに執心するとどうでしょう
こっちの方が分かりやすいかもですね
説明の無い善行…予告なく行われるボランティア…
よっぽど誤解をうけそうですねぇ!

たとえ予告や説明が在ったとしてもですよ、それは、完全ではない
発する側も受け取る側も完全でない上に、それぞれにタイミングも事情もある!
完全無欠の善行もまた、存在しえないということです

 

 

悪行だけがあるわけではない
善行だけがあるわけではない

では天国行きと地獄行きを分けるものは…何?

じゃあ次に、悪だの善だのはいったん忘れて「行」だけを見ましょう
「行」…「おこない」…
そもそも何かを行うとは、何なのでしょうか
ただただ行うことって、何かあります?
呼吸、食事、睡眠…これらを、ただ何の意味もなく行えます?
こんな生きるにあたって基本の「き」である事ですら…
あるいはもっと複雑な行いならば尚の事
何かをする理由やその結果が、全部自分だけで完結する事ってあり得ます?

そう、あらゆる行いは、自分だけのものになり得ないんです

そしてそれは行いであれば全てがそう、
善行も悪行もそうです、1人では善行も悪行も不可能!
いやできるだろうと思われた方!この捻くれ者!
この世で正真正銘自分一人になったとき、人間は人間であることすら定義できませんよ!
人間は人間の中にいてこそ人間なんですよ!

つまりですね、善行も悪行も、自分以外の他に作用するものであるということです
…そも善も悪も対比の対象ありきだから、それらが伴う行いを真に1人では成せないんです
そういうものなんです

もはや人間はその発生から消失まで全てを1人ではこなせないのです
お蚕さまを笑っていられません

 


なんの話してましたっけ

そうだ閻魔裁判だ、天国行き地獄行きだ

つまりですねぇ…天国行き地獄行きを決めるのは、単純な善悪ではあり得ない!ってことです⁡
例え閻魔大王様視点であったとしても、誰か一人の視点だけで判断する善悪など実に些末!
多数の生き物のそれぞれが持つ心とその働きは、絶対的な善悪のみでは区別し得ない!

そんな閻魔大王様が持つ鏡は、その人の罪を映すそうですが
その実、おそらくは…ただ一人の人間を映すのみなのでしょう

一人は一人ではありえない
きっと、どれだけ多くの人に愛され、許されていたかが映るのではないでしょうか

要は、天国行きと地獄行きを決めるのは
どれだけ真っ直ぐに生きていたか、その果てにどれだけ多くのものを遺したか
どれだけ多くの命に囲まれていたか

これを見るのが閻魔大王様の仕事であり
あるいは、供養を通して故人様を見る、我々の役目ではないでしょうか

 


であればその点、ナイルくんは大丈夫でしょう
この通り多くの人々に愛されつつ、その死を悼まれて、弔い終わり供養の途上に於いても、この通り想いが絵葉書の形になる!
こんなに沢山の人々が供養や想いの形を通じてナイルくんと共に生き続けている!
生きていたからこそ、愛され続けているからこそでしょう

天国や地獄の存在が見えなくてもわからなくても、
きっといいところに行くだろうと信じられるような生き方こそが
我々の目指すべき生命の使い方だと思うわけです





ホントは
絵葉書のお礼を
言いたかった
だけなんですけど
ねぇ…

やたらに長くなってしまいました
もはやそういう病気なのでしょう

絵葉書を書いてくださったノブコ様
誠に有難う御座いました





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