blog拝啓、雲樹立つ寺より

戦争はだめ

投稿日: 2022.03.20


お花でも見て落ち着きなさいよ

 

戦争は絶対だめ。

雲樹寺の醍醐です。

こういう時にこういうことを「言わなくていい」
それどころか「言わない方が良い」とすら認識されている
政治や国家間の問題はネットの世界でタブー視されがちです
不思議なものですね。

でもだめなものはだめです
絶対だめ。
言わねばなりません
インターネットの片隅にでも残さねばなりません。

何にもならないかもしれませんが、それでも。

 

 

そも人とは

金八先生が言うより前からずっと支え合いながら生きているのです。
当たり前に人とは尊い。

むしろだからこそ、戦争なんてものが起きるのでしょう

人命や権利の尊さが争いの中で失われてしまう恐ろしさ
この恐ろしさを利用するからこそ戦争にはある種の価値がある

命が尊いものでないならば、戦争はゲームと同じかそれ以下。
きっと本当にゲームのように、飽きられ捨てられ新しいものが流行る
戦争とは即ち、それ以外の全てと同じように尊い「人の行い」なのかもしれません。

逆説的に戦争は人間、人命の尊さを象徴しうる

だからこそ、してはならないと言えます。

人類が取るに足らない動物だった頃から今までの積み重ね
知識を以て行う行為の積層
それら失敗と成功の結果の山
こうして出来上がったものの上に立つのが現代人
ここからさらに上に行くのが我々の孫子

こうしたものを全て壊しうるのが戦争だからです。

 

 

仏教とは

あくまで私が思うに、ですが

人間が多くの人とより良く生きていくための知恵です。
それは資本主義的でも社会主義的でもないかもしれません
だからどうしても現代的視点で考えると剃り合わないところもあります

ですが、そう見える部分すらも
すべて心を尊重し合うための手段であると言えます。

時代や価値観が違っても、真に心無い人間はいないからです。

自分の命は尊い
自分の心は大事
この当たり前の我欲を、相手もまた持っている
だからお互いに大事にしあわなければならないという帰結

自分ですら失いたくないものを、相手も失うべきではない

さらに言えばその自分というのも、自分だけで成り立っているわけでは無い
支えてくれる親兄弟は当然ながら、その発生の大前提に先祖が有ります。
多くの命の積み重ねが、今ここに一人という形になって居るだけ。
今ここにいる一人は、目も眩むほど多くの一人たちによって、成り立っているのです
ただ一人ですら、それだけの尊さを自然に持ち得ている。
失ってはならない。

この普遍的に無くてはならない考え方は、誰もが共有できます。
それは仏教という手段だからではなく、誰にも心があるからです。

心の証明を可能にするのが、仏教なんだと思っています。

 

 

こんなこと言ってますが、出来る事は多く有りません。

兵士になって戦いに行くのも、医者となって命を救うのも
あるいは、この身を一握の火薬とするのも
全て正解であり間違いでもあります。

ちょうどBGMに流している特集報道番組でも言ってました
「今できる事は何なのでしょうか」
殆ど閉めの言葉でした。答えは無いようです。

最高に適切なものは、常に身の回りにあります。

遠く離れた地にて起こる凄惨な争いに対してできる事

それは

同じように過ごし続ける事です。

昨日のように今日を、今日のように明日を
平和に、平和に、過ごすことです。

戦争が恐ろしいものであればあるほど
平和の尊さもまた必要になってきます

この平和は何一つとっても当たり前の事ではありません。
見えないところであらゆる人が、この平和の維持のために戦っています。
そして私たちもまた、この平和を守るために日々を生きているのです。
だから、これを投げうつようなことは絶対にしてはなりません。

戦争を終わらせるために戦う人々も
平和を平和のまま維持する人々も
生きて、戦っています。
銃を取るばかりが戦いではありません。後ろめたい事は何もありません。

平和の中で、平和を想う。
戦争が終わった後の世界にもたらすべきものの為に
必ずこの平和を守り続けましょう。

 

 

戦争はだめ

絶対だめ

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