記念すべき二回目
投稿日: 2021.06.10
〇もう六月なのにまだ咲いてるサツキ、むしろ今が満開という勢い〇
さて
一回目の投稿からさっそく間延びしております
慣れぬ編集画面がうまくいかぬ事である以上に忙しさにかまけて、
ブログ更新が至らぬことはまったく申し訳ない限りです
このまえは二つ目標を立てるのだなどと言っておりました
じゃあ三つ目を立てます
ブログは毎週必ず投稿……!
よし!目標立てたし安心!これで大丈夫!
…そうはなりません
目標を立てたことと守ることは別、立てたからには守らねば
向き合うのはいつだって自分自身
信用ならぬ「自分」というものに約束を履行させ続けねばなりません
その取り立ても自分がやるとあればこれも信用ならぬ
不届きな奴ですよ自分というやつは、我ながら油断ならない
〇
そういえば少し気になったんですが目標は「建てる」でなく「立てる」なんですね
当たり前かと思うかもしれませんが違う理由まで分かりません
英語にすると「建てる」は「bild」、「立てる」は「stand」「set」となるそうです
日本語だと同音異義語ですが英語だとイメージ違いますね
でもって「目標を立てる」を英語にすると「set a goal」となるんだとか
さらに詳細な日本語の解説で比べると
「建てる」ってのは家やら国やら巨大な構造物を造る時に使われるんですって
「立てる」ってのは「ある場所にある物を縦にして位置させること」だそうです
なるほど
つまり目標は建造物や構造物ではない
立たせるまでは寝てるものなんですね
オラっ立てっ俺の為に!
そうやって目標は立ち…そして、私は?
「私の」「目標」は私自身ではない…私は果たしてどうあるのか
私はどこ…?
〇
随処作主 立処皆真
ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり
という言葉が在ります
臨済宗をこの世に打ちたてた臨済禅師という方のお言葉です
何処にいたとしても私自身の主は私のみ、私自身が私自身の物語の主人公なのだ
この心意気が有れば自分自身の立つ処すべて真となる、
自分を愛するように自分の立つ場所も愛せよ
という意味なんです
これは必要以上に威張れとかそういう意味では決してありません
例えば自分の部屋ならば、自分の部屋を壊していいはずがない
バスや電車が自分のものだと思うのであれば、汚すことなどできない
町が自分のものであるならば、ゴミ一つだって落とせない
全て自分に重ねて愛を注げるのならば、間違ったことなどできようはずもありません
自分自身の物語を穢すのが、自分自身であっていいはずが無いからです
そして、私自身が私の主人公であるのなら
私にとっての相手もまた主人公なのだともいえます
自分と、自分以外のすべてと、相手も
すべて尊ぶべきという考えの伺える言葉なんですね
皆この世界にて立っている、生きているのだから
〇
さて、私が立てた目標に対し、不肖ながら私もどうも立っておるようです
臨済義玄禅師がおっしゃっておったのならまず間違いでしょう、疑う余地もない
私はてっきり寝ているのかと思っていました、分からぬものです
そうてっきり、私はずっと眠っていて…
「建てられた目標」という大きな山のような何かに
起こされて、登らされてるくらいに思っておることが、たまにあります
自分の中で
でもきっともっと自然に
私もどこか何かちょっと離れたところに、いつものように「目標を立てて」
毎日毎日、立ってることにすら気付かぬまま歩いているんだろうと思います
しかしここまで言って尚も信じられない、私のような意志薄弱が立って歩くなど
でもそれも、きちんと周りを見れば気付けることです
私の守りたいと思っているお寺は、雲樹寺は、多くの人々に支えて貰っている
そういう地域の人々の愛とも呼べる有難い気持ちに支えられて雲樹寺は建っている
この雲樹寺をさらに先の未来まで運ぼうとしている私も立ち、
まるで雲樹寺を引っ張っているように見えて
その実、寺を支えてくれる多くの人々によって守られているのであると
私もまた、愛されているのであろうと
ここで一生懸命になればなるほど、そういった感謝の最中に居れる誇り高い自分を自覚できるような
あるいは、本当にそういう自分自身に、いつかなれるような
そんな気がするんですね
そうやって不届きで油断ならぬ自分自身を許せればいいなと、そう思いながら
とりあえずブログらしい文章になったことに安心しているのです。