経過
投稿日: 2023.02.20
このように取って置かれるのだ(過去のブログ写真用メディアライブラリ)
年齢をひとつ重ねた雲樹寺の住職です
そう醍醐です
皆様は誕生日いつですか
私は実は二月四日です
節分の翌日という事ですが
雪や寒さと共に有った記憶が強い気がします
寒さが有るから暖かさもある
なんかそんなことを考えてるような、いないような
そんな誕生日を過ごすのも今回で三十・・・
いくつくらいだっけ?
まあいいか
わたしもひとつ年をとったわけだし
ここらでブログも一歳になったかな?
そう思ったのですがそうでもない
最初のブログ投稿日は五月二十日
アッ・・・そう・・・まだ一年でも無いのね
長く書いてるつもりだったんだけどなぁ
長いと言っても、そう大したことでは無いかもですが・・・
習慣づけて私がやってる事ってそう多くないので!
これは大したことなんですよ
〇
何年続いてるかってのはさておき
始まりがあるってのは大事な事ですよ
言うまでも無いですが
樹も、根があってこそ
小さい頃に私が描く絵は根が有りませんでした
樹を書いてもいきなり幹から始まるんですね
理由は・・・絵心が無いからです
未だに在りません
さすがに根から書くようになりましたが
そもそも絵を描く機会が全然なくなりましたしね!
それと小さいって言っても六歳とかのころですよ!!
でもそのような絵でも見る者は見るのです
ある人は私(6さい)の書いた絵を見て
「その内心に土台、基礎、過程をないがしろにする心が在る」
なんて言って怒鳴ったものです
言われて私は思ったものです
争いは無くならないな、とか、そのへん
ひとはおろか(6さい・男)
私の絵心の無さというか
視覚情報を手腕にて出力する機関の非効率性は置いといて
子犬や子猫の足のサイズを見て、成体のサイズを思うように
基礎土台の大きさを見て、ビルの全景を想像するように
始まりありきなのです
そうでもあるのですが
〇
「こちら葛飾区亀有公園前派出所」
っていう漫画が有ってぇ・・・
その中で「墓に没日だけで生年月日が無いのはおかしい」
っていう話がありました
「生まれた日の方が大事だろ」って
昔・・・
それこそ6才くらいの頃、私もそうかと思ってました
読んだのも丁度そのくらいの時期でした
どのように生きたか
すなわち、どのように生まれたか
それは何時であったのか
墓には、それが分かるようにするべきだと
寺の子供として、するべきだと思ったりしたものです
しかし今はというと、そうでもありません
成長したから? どうなのでしょうね
墓は、やはり没年を刻むべきなのだと思います
死した日は、その日まで生きていたという証です
生きていたからこそ、死ぬのです
死んだ、という事実は、これ以上なく生きていたことを表すのだと
今はそう思うようになりました
仏さんの誕生日を刻む、年齢を刻む、否定するわけではありません
しかし墓に在る仏さまというのは、亡くなった跡から始まる存在です
生き切った後から始まる新しい誕生日なんです
だからこそ、わたしたちは無機質な石の姿に人影を見出すんです
そのようになっても、見守ってくれる有難さを感じる為に
それに、樹の根と違って・・・
生きた証は、分かりづらいものです
ありふれてて、当たり前に感じてしまうから
樹の根は、その全高を予測できますが
人の誕生日から、全高は見出しづらいです
そそり立つ樹の先から見る景色を思うように
没年からその人生を望めるのではないでしょうか
〇
というような感じで
生きているがゆえに年を取り続けるのですから
今いくつか、っていうのも大事な事です
ところで私は何歳であったか・・・
ちょっと前まで平成と同い年であったから分かりやすくって
二月四日が誕生日ってのもあって
一月くらいしか遅れが無いので実に観測し易かったんです
今何歳か分からなくなった時には
「いま平成何年ですか?」と聞く
タイムスリップしてきた人みたいですよね
でも今もうそれもできない
平成・・・先に行っちまいやがって
というわけで私は今、35歳とかそのへんです
このブログは一歳なってないくらい
・・・と思ってたんですが、よく見ると
ブログ開設日は五月ですが
どうも2021年だったようで
つまり、もう二年近くたっていたんですね
うっかりうっかり
そういや去年、一周年とか書いたような気が・・・?
なんとも中途半端ですが、
今後もこんな調子で宜しくお願いします