二度目の指談
投稿日: 2023.03.26
二度目の指談のようす、盛況でした。
ことばはだれのもの?
雲樹寺の住職、醍醐です。
私の文章は「。」が付いたり付かなかったりするのが気になる?
細かい事はいいんですよ!!
皆様もなんとなくIQを下げてお楽しみください
今日もおおかたそんな感じで綴るんです
でも頭から哲学的な事言ったりしてますよね
そうなんです
語りたいけれども内容が内容なだけに難しくなってしまう・・・!
そして私は、書いていながらにしてその難しさについていけない!!
さらに情報の出典などが曖昧で文章全体が手を付けられない淡さに!!!
皆様が今から目にしなければならないのはそういう文章です
朝霧のような・・・夕立ちのような・・・夜露のような・・・
・・・
何を言っても栓が無いので適当に始めましょうかね、はいはい
〇
誰もが平等に持ってる物って、結構ありますけど
意外と「それ持ってないよ」っていう人、ありますよね
つくづく自身の見識の甘さを恨む日々ですが
そんな感情を持っていて尚も恨みを深める事案ばかり
自分のすぐ近く、と呼べるようなところに
いわゆる五体不満足な方がなかなかおられません
あるいは私がそういったところに足を向けていないのが問題なのかもですが
特に、そういった方々と関係を持っていない自身の甘さを感じます
中には先天的に、生まれつき体が動かない、なんて方もあるそうで
その時なんと私は無力なのだろうと感じてしまうのです
私は人にものを伝えるのに言葉を用いやすいタイプの人類なのですが
それは、私が日本語大好きなのが原因です
日本語の持つ無限に拡張できる言語としての自由さ奔放さや懐の深さ!
極める!なんてのは土台無理な話ですが・・・極めたいとすら思える!
このツールを通じて、多くの人と想いを伝え合いたいと心底思います
思うからこそ
これを伝える事の出来ない人を前に、私の出来る事が少ない事を辛く思うのです
せいぜい手を繋ぐぐらい、肌で触れ合うくらい、
生き方を一瞬支える程度・・・
申し訳ない、申し訳ないと思う事すらなんとなく、申し訳ない・・・
〇
それがまあ間違いであったと思えたのが、指談です
いわば障碍者と言われるような方でも
先天的でも後天的でも、体の100%が動かないことは無いみたいです
どこか、動く
そのわずかでも動く部分、例えば指先のようなところを用いて
出来る限りの、コミュニケーションをとる
あるいは、その力を補助する方法だそうです
これに対した私の「そんなことできるの」という考えが、私の見識の狭さです
如何に想像できていないか、身になっていないかというものです
一見、受け答えが出来ず聞いていないかのように見える人も
感覚器官は正常に動いていて
聞こえるし、見えている
つまり脳や意識も発達していて、多くの事が分かる
でも動く部分が少ないから表現ができないだけ
ほんの少しの手助けで、それが形になる
この事実に気が付けなかったのが、なんとももどかしい
私の中に在った「当たり前」という認識は、二度崩れました
しかしこれは、ともすれば、考えれば見えたはずの事です
〇
お釈迦様は千里眼を持っていたとか
千里先を見通すとされるその神通力は、果たして本当に目なのか
どうも、相対した人の心の中までをも見通せるとか
であれば、私たちもそれが出来るようにふるまえるかもしれません
雲の如く、水の如く
形を変える自身の心を真芯でとらえることができていれば
相手の立場に立った考え方もできます
そのとき、本当に相手と同じ「そのもの」になりきると
相手ですら知らない相手の気持ちが見えてくる
すると相手の事が手に取るようにわかる
これを伝播させていくと、もはや心に距離は無くなる
相手の知る相手になりきり、その相手の別の相手になる、これを繰り返すと
千里先の出来事まで分かるようになる
目で見たように、でなく、全身と全心で感じる事が出来る
お釈迦様の千里眼は肉体でなく、心の機能だったのではないかと考えます
私がそれをほんの僅か、一里眼でも持っていたら
このような勘違いなどする必要は無かったのに
教わるまでも無く、五体不満足な誰かの手を偏見なくつかめていたのに
〇
とか思ったりもしたんです
要はですね、修行が足りないってことです
いつも言ってる事ですね!!!!
でもこれを言葉にしてしまわないことには、立ちいかない
自覚症状が大事なんです
私の病気は・・・驕りや昂ぶりは、まだ治らない!
修行足りないなりにどうにかしていくほかないので
今後ともどうぞよろしくお願いします