blog拝啓、雲樹立つ寺より

言葉の王様

投稿日: 2021.06.22


駐車場の入り口沿いに紫陽花植えました
写真の紫陽花はイメージです、いつかこのくらい堂々と咲き誇るようになってね

 

 

実は、四回目の投稿にして諦めた点が一つあります

それは、タイトルにブログの発行回数をさりげなく入れていく事です
四回目にしてギブアップってちょっと早いかもですね

でもまあ…真面目に考えていっても十四回目とかで無理になるんじゃねぇかな!と考えたからこそでもあります
もう私の中でもそこまで数字のテーマに沿った話は多分ありませんからね
十五!とかになったらもう無理ですよ、いや逆にできるか……?
イチゴの話とかしちゃったり?

でもだめだ十六がもう思いつかない
ファイナルファンタジーですら十五までですからね(2021/06/22時点)

いや十六夜と被せて…いけるか?
やめようよこんな話!不毛だ!そもそも十四を処理できてない!!

とはいえ仏教の世界は
…いや仏教だけにも限りませんが、とかく世界は無数の一つの積み重ねです

私自身も雲樹寺の38代目
であれば38個くらいは序列付けした何かを持っていた方がいいのかもしれません

一の型!とか弐号機!とか参式!とか第四位!みたいな

でも自分の持ち物にそうやって番号を無理につけたりするよりは
一つ一つを精いっぱいやった方がいいですよね

だいたいそういう考えで諦めたことになります

 

 

でも諦めってすごい言葉ですよね

「言」に「帝」ですからね
王様ですよ

はい、タイトルのテーマに戻ろうとしてるんですね

しかしこの言葉、王様のわりに印象悪いですよね
この王様、泣いてます

大まかマイナスのイメージは諦めという言葉そのものへのマイナスイメージですよね
進学を諦める……
大会出場を諦める……
友人との関係修復を諦める……
結婚を諦める……
ぐふぅ、私は別に結婚は諦めていないのに心へダメージが入る

どうしてこんな、悪い事のようになってしまったのでしょう
諦める、悪い事じゃないんじゃないでしょうか

 

 

仏教の世界における基本的な考え方と言えば因果ですよね

アレがあるからコレがある
考えてみれば当たり前
一つと一つの積み重ねなんてのはこれ以上なく因果の上

一が「因」
三十八が「果」

アルファが「因」
オメガが「果」

最初に私がタイトルに数字を入れる取り組みを諦めてる「因」
諦めについて私が語りだす「果」

全ては繋がり繋がられていく
しかしすべてが自然現象のように、摂理として積みあがっていくものではありません
私たちのような「考える芦」は、繋がる先を考える事が出来る
まさにこの「考える」という部分こそが「灯」を持つ我々、知識持つ我々ゆえなのです

正しいか、正しくなかったかが分かるのは…すぐではない
厄介です

それでも私たちは考えて考えて考えて…そして行動する
あるいはその無限とも思える思考実験が有るからこそ
たった一瞬で判断を下すこともある

そしてそれらは二度と覆ることは無い
もはや「因」は過去になり、現在を生きる我々には「果」を見る他無い

当たり前

言ってしまえば確かにそうとしか言えない、そのくらいには普遍
そのくらい浸透した事実があるからこそ…我々は考えるのですね
現在が、どうなるのか

今はどうだ
次はどうだ
さらにその次は?

一瞬一瞬で得られる情報を総動員して考えた
その結果として行動が生まれるものだとしたら…

果たしてそれがどのような形であれ、誰に責められるでしょうか

 

 

諦めとは、言葉を超えた先にある物です

しかし我々の知識というものはもはや言葉と不可分です
言葉にならぬ考えこそが思考と言えます

そしてその思考の果てにあるのが、諦めです

何かに向けて思考を巡らせていくと、私たちの意識はどんどん遠くへ行きます
例えばどんなに身近にある物だったとしても、です
それの基は何処にあるのか、どこからこれは来たのか
やがて行く先は宇宙です
そこまで行ったとして、私たちに理解できることはあるでしょうか
地球すら太陽すら小さい事となってしまう宇宙という大世界において
思考だけの私たちが出来る事って何?

委ねる事です

そもそも、我々は一体どれだけのことを決める事が出来るのでしょうか
何かを形にしたとして、その形は何処へ行くのでしょう
我々の手を離れた後で、その形を運ぶもの
流れ、事柄と事柄を、より多くの事柄が運ぶ流れ
視覚では小川のように見えたとして、その本質は何処へ流れていくものか
その全てを誰が予測できるでしょう

その大きさが、どれだけ果てしないか、誰ならすべてを見渡せるのでしょう
いやしないんです、そんな人は
誰もが同じ流れの中に居ます

この流れに身を委ねること
これが諦めです

最早言葉を介する必要すらないからこそ、言葉の帝

諦めとは即ち、その場において自身のすべきことを成すことを指します

 

 

あれ、何もしないことじゃないんだ……
そうですとも、諦めとはネガティブな意味じゃないですからね

川を見れば、魚はまさに流れの中
中にはその場に留まっている魚や、流れに逆らう魚もいます
その様子はどうでしょう、流れの中において、不自然なものでしょうか?
違うはずです

私たちも同じ、流れの中に居ます
この様子を俯瞰で見る事の出来る「何か」があったとして、我々はどう映るのか
自然であるはず
自然であるべき
自然なんです

ある物事に対して、挑むもの
ある物事に対して、挑まぬもの
この二者は正反対の行いをしているようで、同じ流れの中に居ます
そして双方ともに、考えた上で行動しているんです

そこで二者の道が違うようになっても
お互いがお互いの一生懸命をこなすことに違いはない

諦めとはつまり
我々が大きな流れの中にいる事に気付く事と言い換える事が出来るやもしれません

 

 

めっちゃ長くなっちゃった

すぐこれだよ

文章を長くするのに努力は要りません
短くする事にこそ、智慧が要るんです
まったくまた垂れ流しやがって…
これを放流されるインターネットさんの気持ちにもなれよ!!!

でもインターネットも大きい流れのなかだし、こういうのもいいよね

いいよね?

あ、はい、いま短くするのを諦めました
今できる限り頑張った成果がこれならいいじゃない、人間だもの

でも結婚は諦めてません
諦めませんよ!!!!!

瑞塔山 雲樹寺
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