おひなさま
投稿日: 2024.03.21
おひなさまの群れ
雲樹寺住職の醍醐は…
いつの間にか前回投稿から1か月過ぎていた事実に
驚きを禁じ得ません
いやここ数週間また忙しくって…
何をしていたかは詳細に思い出せないのですが
曜日の感覚が消失していました
毎週水曜日だけは辛うじて鳥取に向かう車内で思い出すんですが
果たして何をしていたんだったか
でもどうしようもないので!
1か月ぶりでも書くしかないので書きます!
見ての通り今回はお雛様の事ですのでね、時事ネタ
…お雛様もそういやけっこう前だな!
何ならそろそろ仕舞わなきゃならんくらいかもしれない
とか言っといて大丈夫!
実はこの地域は旧暦でものを数えがち
つまり4月3日も…ほぼ3月3日なんだよ!
じゃあお雛様もしばらく飾り続けなきゃですよね
大体1か月飾ることになるなら、4月から5月まで…
ここでさらに!この人形ちゃんたちの中には五月人形も含まれています!
つまり5月5日から数えて…旧暦の子どもの日である6月5日も含んでしまって
人形は7月まで飾れることになってしまう!
グワーッものぐさ!片付けの先延ばし!
〇
綺麗でかわいいのはどれだけあってもいいですものね
って感じの片付けの話はまあさておいて
そもそもなんで、飾ってるのかっていう話ですよ
だってウチには元気な男の子も女の子もいないですからね
これはですね、供養です、人形供養
檀家様のおうちで、不要になってしまった雛人形ちゃんたちの仕事場です
日本人特有、くらいには貴重な感性だそうですが
形のあるもの、特に人型をしたものの破壊をためらう感覚というのがあって
何処に住んでいる誰にでも程度の差こそあれ、日本人には特に強く宿るんですって
しかし、人の形だろうがなんだろうが
どうしようもなく廃棄せねばならぬものは実在しますので
そんな時に行うのが供養です
供養をして、しかるべくして廃棄
とはいえ供養とはいったい何でしょうか
お経を唱え、香を焚き、それだけのことでしょうか
雲樹寺においては、さらに飾る
飾った上で、より多くの人目に触れさせ
満足を得ていただいた上で、供養の道に進む
結果が同じであるとしたら、尚の事
結果に至るまでの何かに工夫をしたいと考えてのことです
〇
ですが本当に、そんなことをする必要があるのでしょうか
所詮は無機物、命なき代替物
愛着を見出す事なら分らんでもありませんが、
魂や、まして命など宿るわけがない
本当にあるとして、観測できないそれらがあるとされるなら
そう主張する人々の心にこそあるのでは?
となればその通り
そう、心にこそ有るんです
心の問題なんです
人の形を模しているのに、動かず喋らず変化しない
でも確かに人の形をしているそれらが、失われていくのが悲しいと感じられるのは
私たちの心がそれを感じているからに、他なりません
あるいはもっと即物的な考え方も有って
人の形を模したものを、作ってくれた誰かのことを想っているのかもしれません
作者に対する敬意のようなものが、無碍に扱えない理由と成り得ます
でもこれは、考えてみれば誰に対しても抱くことのできる大事な感情です
対象の今を通じて、誰かの愛を感じているわけです
それもまた、心の話といえます
心に向けて、供養をするというわけです
悲しむ人や苦しむ人、あるいはそれを察して同じような感情になった心に対して
同じように感じて想うことができる心を持っている者が、精一杯を行う
これだから供養は、供養になり得る
そして供養は、やはり必要な事だと思っていただけるのではないでしょうか
〇
と言ってもやはり、心の事だからこそでしょうが
必要だけれども、無くすこともまたできるというものです
所詮、ただ心だけの話ですからね
でもなんだか最近改めて思うのは、やはり心の事です
傷つくだとか、歪むだとか、全く見えない分からない
さらに言えば、言葉だけのそれらが事実起きているかどうかの証明もできない
何にでもなれて、何処にも見当たらないこれらは、しかし実在する
大変なものです
意思と感情を持つ人間には、もしかしたら手に余る存在かもしれません
現に、軋轢によって苦しむ方もあるようです
乖離するとか、統合性を失うとか、まったく大変なことです
過去、様々な思考実験や哲学、あるいや宗教が思い続けてきたこと
未だに変化の最中にあり、手探りの最中にあるもの
心と、それへの接し方
仏教もまた、心と触れ合って2500年
あるいは答えらしい答えも出ていないかもしれませんが
たくさん並んだ雛人形の帽子がズレていたら直すくらいの行いの中とかに
心が、現われているといえる、かもしれませんよね