遡るブログ…七月七日、煎茶会
投稿日: 2024.08.01
煎茶会の様子、これは仏手柑など季節の植物
遡るブログ…二回目!!
ちなみに全三回を予定しています(あくまで予定)
毎日文章を書こうと思い取り組むと見えてくるのは…やはり引き出しの少なさ
私の書く文というのはまこと、判子を押したかのようなワンパターンぶり
もっと本を読まなければなりませんね
さて今日は七月七日に行っていただいた煎茶会についてです
いわばお茶会、煎茶でするバージョンというわけです
考えてみれば、そういう感じのは一度もやったこと無かった
でも本来は、こういうところからスタートしていくべきなんだろうな…
なんて長い遠回り
でも形にできたしまあいいかぁ!!
というよりはそう、形にしていただいたわけですね
大変有難い
今回この会を形にしていただいたのは「小笠原流」という煎茶の流派の方
その鳥取西支部の皆様が七月七日を盛り上げて下さったのです
〇
煎茶会ってのは、そういえば何なんですかね
じゃあ調べてみましょうね
「江戸時代中期以降に文人墨客(当時の文化人)たちの間に流行しました。
当時は茶道の形骸化が進んでおり、それに異議を唱えた知識人たちが形にとらわれない茶道として見出したのが煎茶道です。
そのため、煎茶道は茶室や道具に必要以上のこだわりを持たず、自由な精神や風流を重んじます。
文人墨客たちが自然の中で嗜んだ煎茶道の精神は、堅苦しいものではなくより日常的な茶道として親しまれています。
かの岡倉天心も「茶の本」の中で団茶、抹茶、煎茶、それぞれの製法や時代背景を含め、その流れについて古典派、浪漫派、自然派と示しています。
そして日本人にとっての茶の道は生きる技を磨くものだとも紹介しているのです。」
ですって
小笠原流のサイトに書いてあったので間違い無いですね!
ふうーん自然な風流を感じるための機会かぁ
要は坐禅ってことですよね
違う?
まあそのあたりはおいおいにしましょう、おいおい
そんな煎茶会in雲樹寺は、本堂に作った待合室から始まり
受付を済ませたあと、七夕(関東風)らしく本堂に飾った笹にお願い事を書いてもらって
雲樹寺の歴史やらなんやらのお話を聞いてもらってから
本堂外周をぐるっと回って庭などの解説をしながら茶室代わりの書院に入り
そこでお茶を楽しんでもらってから、お帰り頂く
というような内容の会でした
これを…6セット!
夕方近くまでおもてなしの為に動き続けるという徹底ぶり
そのようにお茶会というものを行い続け、7月7日は無事に終わっていったというわけです
お疲れさまでした!!
〇
「侘茶」に代表されるように
禅宗とお茶というのは、実に密接に関係し合っています
だから煎茶会を開催したわけではありませんけれども
それが具体的にどう関係しているのか、について私はよく知りませんでした
例えば、禅宗の作法の中に茶礼というものがあるとか、その程度の事は知っていますが
これも、ただお茶を用いるだけの事で、お茶でなければならぬ理由はさほど多くない
歴史的に見れば、禅宗との関りは深いけれども
だからといって未だに用い続けるのは何なのかとすら思ったり
お茶なんかじゃなくジュースでいいじゃない!と言いたいわけでも無いですが
何故ジュースではダメなんですか!?と聞かれたときに答えるすべがない
そういう理解でした
今回、雲樹寺を会場にしてみて改めて分かりました
いや、知っていたけれども改めて気づくことが出来た、というものですが
おもてなしとは、修行に似ている…
来る時間や相手の状況を思い浮かべ、最適な環境を整える
その上で、我々がどのようにもてなしたいかを計算してシミュレーションをする
繰り返し考えるほど、行うべきことは増える
相手のことを想う時間が増える
そして、未だ見ぬ相手を想うという行いは
転じるまでも無く、自分自身の心と向き合う行いそのものなのです
相手がああだったらいいな、こうであればいいな
そういう考えは全て、自分の心から生まれるものです
まだ見ぬ客人は、事実に基づいていない、過去の経験や自身の夢想によるもの
これを事実に近づけていく行いは、我欲の削り取りに似ていて
身心を瞬間の為に先鋭化させていく、トレーニングでもある
ここにさらにしきたりに則った正しさや美しさを求めるのであれば
やはりこれは修行そのものなのでしょう
行いを通じて、見えないものを想う
結果として、何重にも自分自身を高く良いものにしていく
誰かを通じることで、自分の力にしていく
煎茶会とは、修行の場でした
〇
つまり、
ジュースでもいいです
ジュース飲みましょう
いやね、お茶が良いとか悪いとかではなくって要は相手ってことです
相手ファースト、自分セカンド
相手の為に自身のあるべき姿すら変えることが叶うのであれば、まさに修行
雲にも水にもなれる心が、仏のもとに辿り着けるというものですから
相手が真にジュースを求めていることが分かるのであれば、それが正解でしょう
そして、正解は人の数だけあって
一人だけの主張が正解そのものではない可能性がある
ジュースを飲みたいと泣く子供にとって本当に必要なのはジュースとは限らない
親の考え、子の未来、心の動き、将来への影響、今この場の空気感、これを見る人、後から聞く人
考えるべきことはまだまだあるのに、答えは一瞬で求められる
これもまた相手を…そして、相手を取り巻く全てを想う修行の一環
簡単にジュースを出してしまう結果を選択するのではなく
自身と相手、考えられる全てを飲み込んだうえで
出てくるものを相手に差し上げる必要がある
これこそがおもてなしであり…修行
まあ難しいこと!!
でも、この難しさこそが
今を求め続ける我々が真に養わねばならない感覚なのでしょう
ああそれと、自分が本当に守らなければならないものもまた、見失わぬように気を付けなければ
相手に合わせすぎるのでは、決して無く、です
ああー修行じゃ修行じゃ
明日も明後日も修行じゃぁ