托鉢しました
投稿日: 2022.11.29
古今無双の托鉢ぶり、天晴れなり(誰目線)
托鉢をしました
托鉢をこなした雲樹寺の住職、醍醐です
何も偉くない、何も・・・
おかげでブログの更新が遅れてしまいました
尋常でなく疲れた肉体のせいです。コラ肉体!!
やめて!肉体を悪く言わないで!!
昔は静岡から島根まで帰るのに一日60キロとか歩いたのに
今の私ときたら全くだらしのない
たった10キロちょっと歩いただけでガクガクです
毎年この時期に行われる歳末おかげさま托鉢
今回は雲樹寺で行ったのですが、なんだかけっこう歩くことになりました
え?そもそも托鉢って何かって?
よろしい・・・説明しましょう
〇
ご飯を食べられるのは当たり前のことではない
そんなことは誰もが当たり前に知っているべきこと
でも、誰もがあたりまえに食べてしまいがち
例えばごはんであるだけの事、何でもそうです
着るもの、寝る場所、生きる事ですら
当たり前にしてしまいがちです
当たり前には、感謝がありません
托鉢とは、そういう一つ一つに
「当たり前ではないのだ」と自身に言い聞かせる為の
手段であり修行そのものです
みたいな
〇
托鉢とは、本来はつまるところ物乞いです
修行者が持つことを許される道具の中の一つである鉢
要は器
これをもって街中を歩いて回り、人々に生きる糧を分けていただく
そういう修業なんです
そもそも私たちの修行という行いは、何ら生産に寄与していないんです
自身が座禅を組み思想に耽る為だけに集約される生活
過程も結果も、人々の為に成らない
あるいは自分の為にすら
そんな生き方を続けるためには自分だけではどうにもなりません
だから他人を頼る、頼らざるを得ない
頼って、生きる
というよりは、周りの人々の恵みによって、生かされる
人間が作る社会という構造の中で、そこから零れたもので生きる
生かされる
これが修行なんです
〇
聞いてどう思うかはそれぞれだと思うのですが
でも、これって修行だけの事じゃないんです
世の中の全部の人が、人がこなす役割というものが
ホントに実を成すかどうかなんて誰にもわかる事じゃない
とんでもない何かを成す孤独な誰か
実は何も成していないのに沢山の中にいる誰か
逆もまたしかり
それが悪いことなわけがないのです
大事なのは、実を成す事ではない
生きる事
生きて、生き続ける事なのです
誰もが支え、支えられながら生きている
意味を求める事自体が、迷う心こそが
人間なのだと
知るための手段の一つが托鉢なのです
〇
前もこれ書いた気がする
恥かしい
〇
とにかく托鉢を行ったわけです
山陰西教区おかげさま托鉢、総勢二十名近い和尚様方のおかげで
そして、参加してくださった檀家様方や通りすがりの皆様方
そのほか多くの人々のお陰で、今回もきちんと修行ができました
このおかげで托鉢の後も修行ができ、
今も私は生きていく事が出来ます
何一つとっても皆様の御蔭様
本当にありがとうございました。
〇
しかし体中が痛い・・・!