一年目、おわり
投稿日: 2023.04.30
何年目の終わりだろうが花は美しいのだ
二週間ぶりの雲樹寺の住職、醍醐です
なんだか更新し損ねていました、フフフなんでだろ
問題はわかりきっているんですけれどもね!!
私の時間管理の甘さがもう・・・ね!
ブログに書きたいことは、水曜とか木曜とかに思いつくんですが
翌日には忘れています
メモとか・・・なさらないんですか
ああいう事、メモが出来るのもある種の才能ですよね
そもそも努力するのも才能だっていうじゃないですか
思いついたらメモ!習慣づけるのはなかなか大変です
やれば便利だと思っちゃいるんですけれどもね
どうして体は動かないのか・・・
〇
何気ない日々でも、沢山の「やるべきこと」の積み重ねです
そうして繋いでいく毎日が自分を作る!
しかし多くの場合は、流されるように運ばれてくるものをこなすだけ
自身の明確な意志を持った行動を要所に挟むのは、至難です
なれども、その至難をこなさねばなりたい自分にはなれません
そう思いながら、一年を一生懸命過ごしました
誰にも成れない自分自身になる為に必要な事を、必要な事の間に挟んで
結果としてここにいる私は、果たして理想通りなのか
・・・まだわかりません
〇
こうして苦心しながらブログを書く私自身も、理想の私ではありません
メモを取らぬ過去を恥じ、発想の弱い自分に怒り、進まぬ筆に焦り・・・
来客を示す「ピンポン」が鳴ると行かねばならず
まったくままなりませぬ
しかし「ああもう!」と思いながらも
來山いただいた参拝者様に呼ばれて体は自然と動き、表へ出るのです
参拝者様には笑いかけ、世間話で労い、御朱印をお渡しするのです
こういった働きをするのは、間違いなく私自身です
焦燥や怒りを胸にしたまま笑い、出来ぬながらも真似事をこなす
感情を悟られぬように参拝者様を楽しませようとする私です
上手くいかぬことに涙を流しながらもこなすのは、私其のものです
「やるべきこと」をこなす、私です
そう思えれば、私はきちんと、私らしい一年を過ごしたのだと思えます
〇
無我、という言葉は、自分が無くなることを指すわけではありません
我が無くなるほどの行いへの没頭です
自分というものが消滅するほど一生懸命になっても、自分は無くなり得ません
煩悩が庭の雑草のように後から跡から湧いてくるのと同じように
無くなるほどの過酷さに在って、尚も我は我のままなんです
自身を隠すようにふるまおうと、行いを何かに似せようと
私というものは、どうしようもなく私です
たとえば立場が変わり、責任が増え、仕事が多岐に渡ろうと
此処にいるのは、私です
〇
私はそんな一年を過ごしました
珍しい事も無く、つまらない事も無い
この先もこうでありたい私が、二年目に入ったのです
未だメモすら取れない愚かさですが
今後ともどうぞよろしくお願いします